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地下室ブログ

板橋にある地下スペース「アートスタジオDungeon」で開催する展覧会やイベントの情報を発信します。

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作品解説

 展示空間の入り口から。
 地下室への階段を降り立ってからの作品を私なりに説明してみよう。



 まず、眼が地下室の展示のためにしつらえた照明に慣れる前に、今井紀彰の『十円大仏の足』が立ち上がってくる。三年前に製作されたこの作品は横浜の旧財務省で発表され、台東区浅草橋、そして板橋の大和町へとやってきた。作者の今井自身の説明によると、この『十円大仏の足』は初期の仏教にあった仏足石と現代最強の偶像である“お金”が合体したものである。
 酸によって腐食された十円玉は全部で四万円分あると彼は言う。大仏の左足、五本の指が十円玉で覆われている。一見してそれほどの金額になるとは思えないが、鈍く輝く十円玉が放つ光は我々の欲望を金銭や貨幣経済とは別の不思議な方向へと拡散させる。以前の展示では今井がこだわり続ける素材であるアスファルトを突き抜けて大仏の足の指が出てきていたが、今回の地下室での展示では、コンクリートの瓦礫から指が出てきている。東日本大震災以降、展示に限らず、ワークショップや慰問ボランティアなどで、幾度となく東北へと向かった今井自身の風景として、コンクリートの瓦礫というものが重要な風景を伴う素材になってきているのだろう。鑑賞者はその『十円大仏の足』を取り囲む地下室の壁にチョークで自由に言葉を書き、絵を描けるようになっている。
 


 そして、振り返ると、富永剛総の『丸鏡』が二枚、壁面に取り付けられている。東京の夜景をピンホールカメラで写し撮ったもので、原理上、ピントはすべてにあっているのだが、ぼやけて見える。フレームとして使っている鏡が今井の『十円大仏の足』を写しこんでいる。鏡の裏側の鏡面塗料を削り取り、写真をはめ込み展示していく手法を富永は時々見せるが、その影響はヤン・フートが、かつてワタリウムで見せた“視覚の裏側”展にあると思われる。彼自身にフランドル派が持っているアイロニーが備わっているとは思えないが、視覚芸術の一端にいると自覚している彼はときたまこのような展示方法をとる。鏡自体は五年前にアムステルダムの展示に使用したものなので、表面は傷つき、薄く曇っている。そこに時間の経過を見ることもできるのだろうが、経過する時間の無化をこそ感じてもいいのだろう。富永自身は展示期間中に、地下室でフィルム現像を試みるそうだが、それらのフィルムは当分プリントされることもなく、地下室の天井からぶらさげられるのだろう。


 
 歩みを奥の方へと進めると、左手に6メーター近い横長のキャンバスが天井に接して広がる。木村哲雄の『サラリーマン進化論』だ。類人猿から二足歩行を始めた人類の祖先がコピーでキャンバスに糊付けされ、次に、いきなり満員電車で禿げた中年男が女子高生に痴漢をしている図が描かれている。その画風は筒井康隆が昭和の中頃に描いた漫画を何故か想起させる。色調のせいだろうか?タッチのせいだろうか?それとも扱っている画題が筒井の“俗物図鑑”を思わせるのか?
 痴漢をした中年男は警察に捕まり、女学生に金を支払っている。そして性懲りもなくまた次の図では痴漢をしている。木村が描く人物はどこまでも人間的で、そして卑屈なまでに日本人的に見えてきて、見ているこちらは心が苦しくなってくる。その苦しさを鑑賞者が自身の内で観察することを強要させるだけの力が木村の絵巻物にはあり、長らくスペインで暮らしてきた彼が養ってきた日本に対する偏愛があるように思われる。下書きも並列して提示されているのだが、こちらは紙にボールペンで描かれおり、両端はトイレットペーパーなのかキッチンペーパーなのか判別はつかないが、いずれにせよロールペーパーの芯で留められている。芯に印刷された「まいどありがとうございます」という文字が、何故だか泣かせる。キャンバスにオイルで描かれた方を本絵、ロールペーパーにボールペンで描かれたものを下絵、と区別するのも野暮になるくらい、この下絵のタッチは木村の精神を伝えてくれているような気がする。つまり、「描けば描けるのだ。だからこそ画家は戦略を持て。」というようなこと。
 


 木村の作品から、眼を少しだけ下へずらすと、黒田将行の『カベの人たち』がある。白いガムテープの表面に黒マジックで目玉を描き、輪郭に沿って切り抜く。その切り抜かれた目玉を貼ることによって壁のしみが顔に見えるような箇所を彼が選んでいる。のっぺらぼうに目を入れることによって顔と見立て、こちらを見ているように壁の存在を浮き上がらせる。壁に人格を持たせようとしているのかもしれない。混沌に目鼻を入れて、混沌を殺してしまった古い逸話を思い出すのも面倒になるくらい、黒田のこの作品は茶目っ気に溢れた悪意があるように思われる。人の眼にあまり触れられずに蓄積した時間を表面に持つ、この地下室の壁は黒田によって、眼を入れられ、ある種の人格をもつようになる。壁が語ることはありえないが、人は、壁を見つめながら、自己問答を繰り返す生き物だ。壁も語り始めるし、眼も物語る。まして作者を超えて観客が語り始めるのも時間の問題だろう。
 


 木村、黒田の作品がある壁の対角に関根正幸の『中仙道地図』がある。ローテーブルの上に大量のトレーシングペーパーが積まれている。中仙道の地図のトレース上に実線を関根自身が書き加えたもので、地図批判をするために必要な作業であったらしい。それらはデータとしてまとめられ、もはや必要なものではなくなったそうだが、地下室の壁面につなげて貼りなおすことによって、壁に何時出来たともしれない現実の亀裂と、地図という創造された現実からトレースされた中山道という一本の道筋が奇妙に呼応する。中仙道レーベルという現代音楽のレーベルを90年代に立ち上げていた関根は今となっては「特に中仙道に深い思い入れがあるわけではないのだが、、、。」と漏らすが、日本橋から京都へと続く、東海道とは別の、もうひとつの道、中仙道というものをふたたび考えてみる時に、‘目的地へ到着する道はなにもひとつだけではない。ということに気づかされる。そして彼の、この中仙道ラインは天井を這い、隣の部屋へ介入してゆく。
 


 その部屋には、もはや何時、誰が、何の目的で設置したのか判別つかない大型の金庫がある。
 音楽がその金庫の中から聞こえてくる。
 安藤雄康の『Coffre-fort』と題されたその作品名はフランス語で金庫を意味する。
「このようなやり方ならばいつまでも音楽を作り続けられる。」と言った彼は展覧会開催直前まで作っていた音源を金庫のなかに仕込んだ。フィールドレコーディングと思われる音源と彼自身作曲して録音した音を混ぜあわせたかのような音が地下室の金庫から響いている状況に立たされた鑑賞者は時間というものの量をあらたに考え直すいい契機を手に入れることになるだろう。   
 音は空間を時間の波によって放たれていく。確かに鼓膜は彼の音楽により振動し、我々は音楽を聞く肉体という安定された存在理由を手に入れるのだが、目前にある緑色した大型の鉄の金庫から音楽が発せられていると気づいたときに、その意味の不確かさにより、感覚は揺さぶられる。
 新宿歌舞伎町の芸術公民館で語られているおしゃべりなども通低音として入っているらしい。そしてヴィトゲンシュタインの著作を友人に朗読してもらったものや、世界各国語で語られている会話、政治家の演説。これらが並列にあたかも価値を等価にして響きあいお互いを補完するかのように、または挑発しあうように流れてゆく。
 この金庫から音楽を奪い取ることは到底出来そうにない。
いやなにも、金庫を目前にした人間がすべて、その中身を奪い取る欲求を持つものでもないのだろうが、地下室の金庫には彼が、つい先ほどまで作り、重ねて記録された音楽が、再生され続けている。
 そしてその重々しい緑色した金庫の扉はわずかに開いている。
 


 その音楽にまるでホワイトノイズを入れて介入するかのように『SCANNER』と題された安藤順建の映像作品が同室にある。彼は安藤雄康の弟だ。映像は日々の彼のフィールドを撮影したものを再度スキャニングしているかのように編集され、ループで投影されている。壁のコーナーに対して仰角ぎみに投影されているので、映像画面は五角形になっている。その五角形は落ち着いていて穏やかな家の形を想起させる。地下室という非日常の空間にいて、この家の形は、不思議な安心感をつかの間与えてくれるのだが、映像の内容は、かなりきわどいものもあり、そのギャップが我々の奇妙な現実社会を考え直す契機として機能している。彼自身の言葉で「自分の頭の中をスキャンしたとでもいえばいいのか?」というフレーズすらもかき消すようにスキャニングする時の、あの行きつ、戻りつ、するモーター音が『Coffre-fort』という兄の音楽オブジェ作品と合奏を楽しんでいるようにも感じられる。



 そしてその部屋で、眼を床へとうつむき加減に移すと、北大路翼の『SM俳句』が並べられている。
 展示初日に行われたパフォーマンスの産物で、彼は肉体的に責められながら俳句を詠んだのだ。SMプレイが記された二つ折りの紙片を、女王様に指名された観客が選び、そのSMプレイの行為を受けながら俳句をひねり出す。それらの句は色紙に筆書きされ、彼の肉声で読み上げるのだが、観客からブーイングがあれば何度でも句を、あらたにつくる。という過酷なもの。
 鞭打たれ、パンティストッキングを被せられ、花火を浴びせられ、平手打ち、等々、屈辱とも思われる数々の行為を女王様から受けつつ、彼は俳句の地平を目指しているかのように思われる。
 当然、その趣味を持つ人間には快楽、快感の中で俳句をひねるというかなり風流なものであるが、その責め苦によっては、彼の身体が苦痛に耐える限界を超えているだろうことも想像できる。色紙に記された筆跡がそれを物語ってくれている。
 


 その部屋を出て、奥の部屋へ行くと武田海の『ミスユニバース斬り』が微妙なバランスを保って立っている。内臓を露にした女性は冠をかぶり、凛として笑みをたたえている。彼女の冠は地下室の天井の穴から射す美しいぎりぎりの光によって輝いている。そして床には縮尺がことなる人体像がもうひとつあり、それは肥満体の男が少女の膣に頭部をめり込ませながら呆然と立っている。『ヨカッター』という作品だ。双方とも、像の素材は布と和紙、そしてFRPで出来ており、非常に軽い。その軽さは台座の傾き具合からも察知できるが、その軽さがもたらすものは、かつてマルセル・デュシャンが石膏によって大理石と見まがうものを作ろうとしたのと同じ作用を感じさせる。重そうに見えるので、そのつもりで身構えて手に取るとあまりに軽すぎて、驚く。そう、イサム・ノグチがバルサ材を用いて大重量を感じさせるかたちを探求してした頃の、ある種の精神。そういうものを感じる。その精神性が何なのか私には分からないが、まだまだ何かを学びたいという強い欲求を、武田の作品を眺めていると、感じる。期せずして、この奥の部屋の作家たちは学生の身分をもつ人が多い。Cim↑Pomの兎城竜太が美学校で受け持つ講座の天才ハイスクールの受講生たちが数名作品を出している。宮嵜、涌井、西村がそうだ。
 


 宮嵜浩の『DON’T THINK』はキャンバスに描かれたセルフポートレートともいえる絵に対して、緊迫した社会情勢を伝える映像を編集し投影している。バクダット空爆、北朝鮮の軍事パレード、大津波、核実験のキノコ雲、眼を見開くアジアの女性、ライブに熱狂する観客、報復のための絞首刑。それらが、ひび割れ、焼け爛れたかのようなキャンバスの表面に映し出されている。表面が剥がれ落ちた質感は絵画の荒廃を表しているわけでもなさそうだが、投影される映像と剥がれ落ちたキャンバスから浮かび上がる彼自身の嘆いたような表情が重なり合うとき、また別の意味を見るものに生みだしているような気がしてならない。すくなくとも私は意味を超えた、なんらかのメッセージを彼と彼を取り巻く世界から受け取ることが出来たような錯覚に陥った。
 印象的な映像は梯子を昇り続ける手のアニメーションだ。脱出するために焦ってせわしなく動く両手は赤い緊急灯に照らされて、どこまでも、どこまでも上へ上へと登ってゆく。
 映像をひととおり観終わるころには、聖衣という言葉が浮かび上がってくる。
 


 その隣には、涌井智仁の『ハイミ人』。
 まだ、未完成であるらしいが、一枚のつるつるした絵が蛍光灯の管を抜いた場所に架けられている。カキ氷屋のマークに千鳥模様がダブルイメージで描かれている。画面下部には水色で波の文様。そして緑色で浜千鳥が三羽下降するかのように配置されている。浜千鳥の文様のせいか名古屋方面へいきなり意識を持っていかれる。無意識の領域をあえて操作しようとしているところが涌井の魅力なのだろう。彼自身は音楽を作る人物であるが、この時期、フィールドレコーディングばかりを続けていて、作曲にいたっていないらしく、音楽作品の提出が今回遅れているが、それを待つ間、彼のグラフィックワークを眺めているのも悪くない。何故か壁の隅に養生シートが置かれている。それが逆に彼が描ききっていない世界を思わせるには充分な角度で壁にもたれかかっているのだ。
 そのようなことを漠然と感じながら突っ立ていると、あることに気づいた。
描かれている文字は氷ではなく、水であった。
 


 そして机の下にコロコロを吊り下げたのが西村健太。床の埃を粘着テープで取るこのコロコロというあだ名を持つ清掃道具自体も愛嬌がある存在だが、西村の今回の作品もユーモラスだ。作品タイトルとして『Keep Clean』と名づけられている。机の脚と天板が接合する部分二方からテグスで吊り下げられ、天板の裏側あたりに取り付けられた小型ランプがコロコロをまるで舞台俳優のように照らしだしている。そのコロコロの粘着面には金粉が綺麗に張り付いている。どのような豪邸の掃除をしたのだろうか?それとも日本画の技法で金箔を背景に貼りコロコロで部分的に剥がし取るというような侘び・さび・きらびやかの技法でもあるのだろうか?
 いずれにせよ、コロコロが吊り下げられた白い机の表面には、この地下室の持ち主である戸野倉の作業の痕跡として石膏が薄く付着していて、その石膏の粉末の白さと、西村の白地に金色が、微妙に響きあっている。その机の上に宮嵜のプロジェクターとDVDモニターは設置されている。
 


 エスカレーターを撮影したものを地下室のもうひとつの階段に投影しているのが小田切礼美。タイトルをまだ考えあぐねているらしいが、身体性を失っている状態を意味するタイトルにしたいと言っていた。エスカレーターの映像は階段に投影されると、無数の剃刀が上下するようにも見え、残酷な拷問がその先に待ち構えているようにも感じられる。試しに数段この階段を上ってみると、自身の影により残酷な剃刀の刃は消え去り、作者の意図するところとは別の意味で、あらたな身体性を見出すことが出来た。小田切のプロジェクターから漏れる青い光は武田の立体像の美しい背景照明になっている。
 そしてエスカレーターが逆回転する時、図らずも、死と再生、回帰する精神を持つ勇気を得ることが出来る。
 その映像を投影しているプロジェクターは三段の一般的な白いカラーボックスの上にダンボールとガムテープによって縦位置に固定されている。そのカラーボックスの前にハンドメイドのラッピングペーパーが置かれていて、それは乳白色のごみ袋に印刷物等を配置しアイロンの熱により密着させているというもの。小田切はそのラッピングペーパーを一枚三百円で販売したいらしい。
 


 中島晴矢の『The Fake Monster』はセルフポートレート写真。レディガガと三島由紀夫に同時に扮して写真に納まっている。そのポーズとそこに写し取られている事柄を言語化してみたいのだが、、、。
 黒地の背景は神保町の美学校であると思われる。日本の国旗とカタカナでレディガガと毛筆で墨書きされた半紙の前に作者自身が左手を腰に当て右手を腰の位置からのけぞらすように、、、。腰をやや落とすような姿勢で、、、。かかとは小さめのハイヒールを履いているせいか地面から浮かんでいる。銀のスパンコールであろうか輝いている。三島が自決したときに締めていただろう鉢巻を締め、その上にネイビーブルーの帽子をはすに被っている。丸いレンズのサングラスを頬骨にのせ、眉は滑稽なほど太く描かれ、口紅は日の丸の朱にあわせたかのようにさされている。彼の前に日本刀が一本、朱塗りの鞘に収まっている。否、木刀であろうか?いくつもの大小のハレーションが画面に追加されており、全体的にキッチュな印象を与える。レディガガと墨書された文字は朱で修正指導されており、その書の銘として二北、平岡公威とある。三島由紀夫の本名だ。
(文・写真 富永剛総)


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