最後に、この展覧会の企画者である黒須さんが寄せてくれたテキストを掲載します。
「うたげと孤心」
本企画は2016年4月足利市立美術館特別展示室にて開催された「連画のいざない」を基としているものの、展示内容は尠からず異なる。連歌の方法や形式を連画として、ことばから絵へと転換させ得るものかを探ろうとした前回の試みに対し、今回は完成された作品としての連画と云うより、連歌会に倣って連画会の如き営みは可能であるのか、亦〈自律した部分〉を繋ぐことによってではなく専ら〈自律し得ない部分〉を積み重ねることを通じて顕在するものとは果たして如何なるものかを探る試みとなった。
具體的に為された連画的試みとしては、ほぼ500枚ほど重ね綴じられたトレーシングペーパーに6人の参加作家が各回1~2分の持ち時間で即興的に繰り返し絵を描き継いでゆくと云うかたちを採った。半透明の紙からは常時6~7枚程度その下に描かれた絵がレイヤー(層)として透け見えており、1枚ごとの絵の独立は妨げられることとなる。この連画的営為は全過程を映像として記録され、500枚でひと連なりの〈作品〉と映像が並置されることによって初めて完成される。
前回の展示では、殊に形式面に於て連歌が連画に置換され得るものかを、亦ことばと絵との相互自律的でありながら共振的な関係に於ける〈媒體〉の在り方を探索したが、その一方で連歌に於て複数人が関与することによる意識融合の側面には光を当てることができなかった。然るに、連歌の重要な側面のひとつはまさに参加者の意識及び無意識の相互的な干渉や浸潤である。今回、完成された〈作品〉のみでなく、営みそれ自體を重視したのは、意識の揺らぎや混交を如実に顕在させる必要があったためである。尤も,営為の記録映像の方がより制作の現場を示していると云うわけでもない。この場合、〈作品〉と〈映像〉は飽くまで相補的に総體を成すのであって、分離的に自存するものではないのだ。
更に、参加作家個々の作品を併せて展示したことは、意識融合の複層的性質から招来されている。そもそも個々人の意識とは、きわめて複雑で多義性に満ちていると同時に単一的であり、尚且つ無極點をも内包する。従って、意識融合とは、この複雑きわまる〈多〉であり同時に〈一〉である唯一的形式としての集合體である〈自己=他己〉が相互浸潤し、互いを活かすことである。とすれば、その〈自己=他己〉の開示なくしては意識融合を可感域に定着させることはできない。個々の意識の自律なくしてその融合は成立し得ないのだ。
連画とは、例えばことばと絵との関わり、参加者の意識の融合などを探る〈遊び〉である。間違っても肩肘張った藝術なぞではない。とは云え、遊びの中でしか摑まえられないものだって在る。
是非、皆さんも試してみては如何?
黒須信雄
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