レンカさんの踊りは、生々しい肉体の存在を感じさせることにその肝があると思われ、薄紅入りのドーランを塗ったオリエンタルな容姿も相まって、強いて分類するならば、舞踏と呼ぶことができそうです。
とはいえ、意外にちょっとベケットの芝居を思い起こさせるようなところもありました。
壁に沿ったり対角線に歩いたりといった動作が『クワッド』のようだったり、手にした懐中電灯で顔を照らすグロテスクかつユーモラスな場面が『わたしじゃない』などに似ていたからだと思いますが、今回の舞台が即興ではなく、緻密に考えられた演出が貫徹されていたため、ことさら演劇的な要素を感じとったのかも知れません。
コンクレートな素材を基調にした自作の音響も、その印象を強くさせました。
また、タイトルにもあるように、懐中電灯やストロボなど様々な光に「照らされる肉体」というモチーフが軸にあり、闇の中に消え、光の中に浮かび上がるレンカさんの踊りを見ていると、ベケットにも影響を与えたバークリーの有名なテーゼ「存在することは知覚されることである」("Esse est percipi")が、ここにも当てはまるような気がしました。
(Photo:池田敬太)
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