2013年に、武田海さんはストライプハウスギャラリーで「IDEA」というタイトルの個展を開催しており、その展覧会を記録した小冊子があります(編集・富永剛総/ONECUP出版)。
インディペンデント・キュレーターの長谷川新さんが、この小冊子についてブリリアントなテキストを書いてくれているのでご紹介します。
あるいは、今回の海さんの展覧会のよき導入となるかも知れません。
ちょうど現在、トーキョーアーツアンドスペース本郷では、長谷川さんのキュレーションによる『不純物と免疫』という展覧会が開催中です。 17日から始まる海さんの個展と併せて、ぜひ。
『点と線』
長谷川新(インディペンデント・キュレーター)
筆者は残念ながら武田海の作品に触れる機会を得ていない。ある日自宅に届けられた一冊の記録集を拝読したにすぎない。それのみをして武田海論を執筆するということは、筆者には手にあまるばかりか、作家に対して礼を失する。そこで、筆者は記録集の最後に掲載された「IDEAの海へ」と題された一群のテクストについて、若干文章を綴ることとした。それは「点と線1」「点と線2」に分けられる。
点と線1
西洋美術における 20世紀最大の「発明」とは何かと問われれば「抽象絵画」であるという答えが返ってくるだろう。すでに歴史化、ジャンル化された「抽象絵画」は、おそらくその「起源」からちょうど一世紀が経ったということもあり、一斉に問いに付されている。
抽象絵画をめくる男性中心主義は、まさにその偏向的な歴史化を行ってきたニューヨーク近代美術館〔MoMA〕自身によって反省され、大きく修正されている。ここ数年の動向を見てみるだけでも、Inventing Abstraction 1910-1925〔抽象を発明する1910-1925〕展(2012年)を画期とし、The Forever Now: Contemporary Painting in an Atemporal World〔永遠の今:超時間的世界における現代絵画〕展(2014年)の失敗を経由しつつも(ゾンビフォーマリズム批判が吹き荒れた年だ。付言するとキュレーターであるローラ・ホプトマンはエリザベス・ペイトンやジョン・カリンら具象傾向の作家を90年代に評価し、草間彌生の回顧展を行い、ドローイングを作品として制度的に登録させた立役者である)、Making Space: Women Artists And Postwar Abstraction〔空間を作り出す:女性作家と戦後の抽象〕展(2017年)に至っている。 こうしたジェンダーに基づいた歴史登録の偏向の矯正と同時に、アメリカ中心主義の見直しも盛んに行われている。いずれの戦略においても鍵となるのは、抽象絵画の非-政治的表面性に隠蔽された大いなる政治性の暴露である。フランシス・フォリンによる書籍 Embodied Visions: Bridget Riley, Op Art and the Sixties〔具現化された視覚:ブリジット・ライリー、オプアート、60年代〕(2004年)は、オプアートの中心人物ブリジット・ライリーの展覧会を追いながら、彼女のキャリアにおいて、いかに様々な政治性が発露していたのかを見事に描写している。それはヨーロッパや南アメリカなどで盛んに行われていた幾何学抽象およびキネティックアートを、「POP ART」の「次」としての「OP ART」という命名によって「アメリカ化」したことに始まり(Responsive Eye〔応答する眼〕展もまた、MoMA である)、オプアートのもつ境界横断性ー抽象、サイエンス、テクノロジー、商業主義、モダニズム、鑑賞者の能動性、作品定義ー、ライリーが「女性作家」であり「イギリス人」であることによる種々の対立が拭い難く埋め込まれている。私たちはここで気づかなければならない。具象/抽象といった二項対立が融解した以後も、いやそもそもにおいて、
およそ抽象絵画が政治的でなかったことなどない。 点と線2 イデア論ーこの世界はいわば「コピー」であり、真の実在としての「イデア」が存在する、しかし我々はそれを本当に知ることはできないーという人類の不幸を、いかに肯定するか。コンセプチュアルアートと呼ばれる作品群に通底する技術はそこに端を発する。たとえラファエロやピカソを持ってしても、彼らの技術でさえ、イデアを現実に表現することは叶わない。この壁を展開すると、次のようになる。頭のなかにある「アイデア」を現実世界にアウトプットするには、つまり、
他者に伝達するには、必ずそのアイデアは劣化しなければならない。まるで画像の解像度が落ちるように。であるならば、問いはこのように反転する。アイデアの解像度の落ち方、アイデアの劣化の仕方の技術に焦点を当てるべきである。レディメイド、アッサンブラージュ、コラージュ、発注芸術、インスタレーション、パフォーマンスの一回性、これらは「劣化の仕方」の技術の研鑽として理解可能だ。コンセプチュアルアートとは畢竟、イデア論に対しての抵抗と肯定なのである。有名なコスースの椅子/椅子の写真/椅子の定義を並べた作品は、それらが「等価である」と言っている。いいかえれば、それぞれ「椅子のイデア」に対しての別様の劣化のあり方を示している。だからこそ、あの作品のタイトルは One and Three Chairs〔
ひとつであり3つである椅子〕(1965年)と名づけられている。
椅子の作品に比べればあまり知られていないが、コスースは同シリーズとして Clock (One and Five).English/Latin Version〔時計(ひとつであり5つ)、英語/ラテン語版〕(1965年)を制作している。こちらはタイトルに時計とあるにもかかわらず、辞書の定義の引用にその文字はない。
代わりに記されているのは、「時間」「機械化」「オブジェクト」であり、それぞれが「時計のイデア」に対しての劣化となっている。しかし「時間」はさておき、残るふたつが「機械化」と「オブジェ」であるのはいかにも奇妙である。「機械化」と「オブジェクト」はまさにコスースがこの作品が制作した 1965年においての大問題であった。すなわち、(まだそう呼ばれてはいなかったが)コンセプチュアルアートに向けられた様々な誹謗中傷、激烈な怒り、痙攣的反抗に対しての、静かなコスースのメッセージになっている。それはあまりに繊細で小さな声で語りかけられている。しかし確かにコスースは、イデア論に対して別の戦い方を発見したのである。作家自身の身体によって形作られたものと、工業製品との間にある差異は優劣ではなく、イデアの劣化 のバージョン違いであるのだ、という点から、彼らの戦いは始まっている。問われるべきは、そのアイデア=コンセプトを伝達するにあたって、どのような劣化を選択するか、それのみなのである。
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